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3月と言う月に

 最近は昨日の食事に何を食べたが忘れている。それどころか、「ああそうだ忘れ物」と、二階に取りに上がって目に付いた別の物を取り上げてそのまま階下へ降りてしまう。「しまった」と再度二階へ上がり直すこともしばしば。
また、海外旅行の際の写真を見ても「いつ頃だったのかな?どちらが先に行った方判りません」という有り様。とくに50歳台以降のことは記憶があいまいになっている。

 ところが毎年3月になると決まって甦る「記憶」がある。しかも今ではもう69年も昔のことなのに。
 1945年3月13日深夜から14日未明にかけて、大阪市民はアメリカ空軍B29による最初の大空襲を受けました。
その時刻、私は大阪市大正区の泉尾東国民学校1年生であったが、都島工業学校3年生の兄と二人で国民学校周辺、消防署、市電の千島停留所辺りを焼夷弾の落下を避けながら逃げ惑っていました。ときどき火炎で暑くなった防空頭巾を防火用水に浸したりしていた。
 夜明けになって原っぱへ行くと家族がいてやれやれでした。
 聞くと自宅前の道路に設置していた防空壕に待機していたが、周辺の家屋が猛烈に燃えだしたので脱出。火の気の少ない路地を抜けてきたとのこと。5歳の弟は焼夷弾をまたいで逃げたといいます。まさに命懸け。
 隣の防空壕は直撃されたからみなさん亡くなられたと後でききました。

 ほんとうに当時の政府はいいかげんなもので、最初の防空壕は家の床下を掘ってつくりました。警戒警報が鳴ると畳と床板をめっくって中にはいるのです。実際に私もはいったし、下の弟はたしか生後直ぐ入ったとおもいます。
直撃されたら蒸し焼きになります。それで街路を掘って防空壕を創らせましたが、天井は道路のコンクリートで入口は木材でした。 空襲の後みると消失して影も残っていなかった。

 何故、兄と二人だけかというと、私たちの住居は大正区3軒家町3丁目60番地にあったが強制立ち退き命令(火避地をつくるため)をうけた。いまでも覚えているが市の担当者が来て端から数軒の家に黄色のペンキをべたべて塗って「ここからここまで」と言った。うんもすんも言えるものではない。そのころすでに通学路の家は取り壊しが行われていたから別に疑問も持たなかった。で兵庫県加古郡天満村(現稲美町)の母の叔父宅へ大急ぎで引越しの準備をした。3月13日にトラックがきてくれることになり、家の前座敷と庭に引越しの家財道具を山と積み上げていた。ところがその日ガソリンの配給が遅れてトラックが「明日になる」との連絡が来た。 布団が不足、そこで父と兄が通勤・通学のため急きょ借りた住居へ兄と二人で寝に行ったしだいです。トラックが来てくれていたら家財道具は助かったのです。(小休止)
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もうすぐ3月13日

新婦人西宮支部大会で河野昌弘市長が来賓挨拶。

14-03-02項の市長
 たぶん初めての参加だと思います。
 4月20日投票の市長選挙に向けて、新婦人西宮支部の方針がはっきりしましたね。

賛成です

ともおか誠さん当選しました

遅くなりました

ともおか誠さん当選しました。他のお二人も当選です。

詳しくは私のFBをごらんください。
プロフィール

阿波角孝治

Author:阿波角孝治
行政書士
日本共産党鳴尾北支部広報係
自治会世話人

まあ、きままな独り言ですから気にしないで訪問してください!

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